広商野球部メンバー2019出身中学と荒谷忠勝監督の経歴は?夏の甲子園優勝は

高校野球
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こんにちは。広島商が15年ぶり23度目の甲子園夏の出場を決めたましたが、平成では一度だけの夏の甲子園。古豪復活となりました。2019年の広島商野球部のメンバーの出身中学と荒谷監督について調べてみました。

追記 8月3日

追記8月10日 残念ながら負けましたが良い試合でした!

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広島商業野球部

日付 出場大会 回戦 トータルスコア 勝敗 対戦校
2019 7月29日 選手権広島大会 決勝 10-7 勝ち 尾道
2019 7月27日 選手権広島大会 準決勝 13-5 勝ち 広陵
2019 7月26日 選手権広島大会 準々決勝 3-2 勝ち
2019 7月24日 選手権広島大会 4回戦 7-6 勝ち 神辺旭
2019 7月20日 選手権広島大会 3回戦 8-1 勝ち 五日市
2019 7月17日 選手権広島大会 2回戦 8-0 勝ち 広島工大

春の県大会で優勝し、長打力のある打者がそろい、高い攻撃力で広島県大会を制しました。

広島商野球部の出身中学メンバー2019

 

現在のところ上記のメンバーのみ出身中学がわかっておりますが、その他の選手についてはわかり次第追記したいと思います。

荒谷忠勝(広商第22代:93期)の経歴は?

「荒谷忠勝」の画像検索結果

 

荒谷監督は、1994年第66回選抜大会に外野手として甲子園に出場。大学卒業後は11年間呉商業に在籍し野球部監督を務め、2016年4月から母校の教員に赴任され、同時に硬式野球部の副部長に就任されて2018年から監督に!

現在のところ荒谷監督についても上記の情報しかわかりませんでした。

呉商時代ですが。。。

荒谷忠勝監督(42)は、広島商伝統の堅守とバリエーション豊かな攻撃で、現チームをつくりあげてきた。ベンチ外メンバーが中心になって昨秋、今春の広陵戦に足を運び、攻守のデータを作成。さらに広陵との決戦前、ナインに「三度目の正直と気負うことなく、自分たちのプレーをしっかりやろう」と語りかけた。この言葉が必勝への仕上げになった。4失策に苦しんだ相手に対し、広島商は無失策。エンドランなど多彩な攻めで好機をつくり、実らせた。夏の県内33度目の対戦で、04年準々決勝以来の白星を挙げて16勝17敗にした。

春、夏の広島王者へ。「苦しい試合を経て、選手たちは成長してくれました」と荒谷監督は目を細める。その選手たちを代表し、真鍋駿主将(3年)は「日本一が目標」とこの先を見る。宿敵を倒し、15年ぶりの夏切符も、通過点にしてみせる。

 

 荒谷監督こみ上げる感情を抑えきれなかった。閉会式後には膝を折り、おえつした。大粒の熱いものが頬をつたう。15年ぶりに決めた甲子園出場。選手一人一人と握手を交わすと、直後のミーティングで「胸を張ろう!」と声をかけた。

「勇気を持って戦い抜いてくれました。一戦一戦、成長し、思う存分に広商の野球をやってくれた」。頼もしいナイン。自然と言葉に力がこもった。

三回までに10点を奪った攻撃は、伝統の機動力を絡めたもの。初回は天井一輝外野手(3年)の二盗など3盗塁。三回も積極的走塁が8点をもたらした。「常に次の塁を狙っていた」と天井。荒谷監督が「勇気を持って前へ」と言い続けてきた言葉を体現した。

昨春に発覚した部内暴力により若松前監督が退任。昨夏に母校の監督に就任した。大事にしたのはコミュニケーション。授業の合間には真鍋駿主将(3年)らと意思疎通を図った。「情熱をどう伝えるかが大事だと感じた」。指揮官として理想とするサッカー日本代表・森保監督について書かれた「束ねる力」という本に目を通して見識を深めたり、漫画のフレーズを使って練習意図を説明したりした。角度を変えて思いを表現することで、理解を促した。

指導者としての転機は、11年間務めた呉商時代にある。就任から数年間は厳しさを前面に押し出した。「何でそういうプレーをしたんだろうとか、気持ちを考えることはなかった」。しかることも多かった指導は、選手に恐怖心さえ与えていた。

結婚し、子どもが生まれたこともきっかけとなり、30歳前半から徐々に変化が生まれる。「怖いだけではだめ」。厳しさの一方で、前向きにさせるような言葉を使うようになった。個性を伸ばしたチームは公式戦で上位に進出。「呉商で育ててもらってそれを広商でやっている」。感謝の気持ちでいっぱいだ。

大正、昭和、平成、令和と4元号連続で甲子園の土を踏む。「日本一を目指す気持ちがなければ、きょうという日はなかった。あくまで通過点で、まずは1勝したい」。42歳の監督が率いる広島商が、大きな夢へと突き進む。

どんなに厳しくてもしっかりとコミュニケーションが取れていたら大丈夫ですね!

緒方監督も大丈夫なのかな?

夏の甲子園優勝は?

現在のところまだ夏の甲子園出場校が全部決まっておらず何とも言えませんが、実力的には実際のところ厳しいように思います。ただ甲子園は勢い・波に乗れば実力以上のモノを発揮できる場なので初戦を勝つことが出来ると、勢いに乗る可能性があります。

広商の伝統野球とは?

「広商部員心得」の画像検索結果

■しまっていこー 広島商

「おまえらが手本を見せるんじゃ」。1年前、先輩から何度も聞かされ、広島商の伝統を感じたせりふだ。今度は伝える番になった。

4日、練習試合をしているグラウンドの左翼後方。セミナーハウス「藻潮館」の2階から、「はいっ!」という絶叫が何度も響く。入部を希望する53人の新入生たちの声だ。

2年生の2人が、校歌をうたう彼らを鋭い目つきで見回る。指導係に任命された内野手の大見遼と外野手の高谷健太郎だ。

校歌の練習が一区切りすると、今度は学校での振る舞いや私生活について話を始めた。「野球部員である前に広商生たれ」。この言葉の意味から始まり、授業態度や身だしなみでの注意点を説明。野球だけできればいいという考えは、一切許されないことを伝えた。

大見が念を押す。「広商は精神野球を大事にしとる。脈々と受け継がれてきたということを、よう考えて行動せえよ」

2人が指導係を任されたのは、3月下旬。「1年生への指導は伝統があり、誰でもできる仕事ではない」と大見が言えば、高谷は「最初の土台となる大事な時期を託されたので、しっかり伝えていきたい」と気を引き締める。

指導係は名誉ある仕事だが、夏までは練習よりも1年生の面倒を優先させないといけない。「朝の練習は自由なので、できるだけ早く来て素振りをしています」と大見。高谷は、「自分たち2人しか学べないことがあるはず。それを野球に生かしたい」と話す。

指導において、2人が気を付けていることがある。理由付けだ。大声で校歌を歌うのは、試合で歓声に負けない声を出すための訓練。グラウンド内のダッシュの徹底は、プレーでもすばやく反応できるようにするため。理不尽に押しつけることはしない。

高谷が言う。「伝え方は難しい。グラウンドで手本を見せるしかない」。先輩の背中から、そう教わった。あれから、1年。2年生になり、伝統のつなぎ方を学ぶ春だ。(小俣勇貴)

こういった伝統が現代の生徒達にそぐわないから昔に比べ弱くなった!という人もいます。

ただ本当に伝統というのは非常に重たいモノですが、最後には力になってくれる要素もあります。

伝統と近代野球が融合すると良い形のモノが生まれると思います。

こちらの岡嵜監督も広商出身です!

ただ伝統校はOBがうるさいというのも事実で、現在の野球界の張本氏などは典型的ですね!

弱さを自覚することで、どんな練習にも耐える。そして、どんなピンチも平常心で練習通りのプレーをする。この「弱者の戦法」にますます磨きがかかる。一つの完成形が16年後、今度は迫田が監督として臨んだ73年夏の第55回大会だろう。

 迫田は67年に監督就任し69年春、70年夏と甲子園出場を果たしたが、いずれも2試合目で敗退。その後2年間、甲子園から遠ざかった。「あの時の校長が『やったらどうか』ってね」。戦前の広島商精神鍛錬の伝説ともなっている、真剣の刃渡りだ。72年、夏の大会1週間前という時期に、一度だけ復活した。

 師範の指導の下、まずは2時間の腹式呼吸で気持ちを整える。「私もやりましたが、師範が『そろそろいいでしょう』と言った時の“無になる”という感覚を初めて知りました。2時間が、30分にしか感じないんですよ」という。

 飛び入り参加した社会人の指導者は「部屋中の空気を吸い尽くすくらい」派手な腹式呼吸をした揚げ句、集中しきれず刃渡りを断念したとも。それほど極限の精神統一を果たした者が、大刀、小刀の上に乗る。

「最近は甲子園の内野に芝生があるんか?」

「伝説」石本秀一の第一声

 広島商最高の伝説といえば石本秀一だろう。母校はもとより、プロでも監督として戦前の野球を大いに盛り上げた。迫田は42歳年下だが、広島商監督時に会っている。グラウンドを訪れた石本の第一声が「最近は甲子園の内野に芝生があるんか?」だったという。迫田は意図をつかみきれず「ないです」と返事。石本は「じゃあ、何でブルペンのマウンドとホームプレートの間に草が生えとるんじゃ!」と一喝。迫田にとって忘れられない、伝統校らしい逸話となっている。

【プラスワン】三村敏之らを育てた名伯楽 畠山圭司

迫田野球の仕掛け人

 迫田の時代に成熟を感じさせた変幻自在の広商野球。その影には迫田を監督に招いた前監督で、その後は野球部長を長年務めた畠山圭司(2006年死去)の存在があるという。

 畠山の指導下で66年、9年ぶりの甲子園出場を経験したのが三村敏之と同級の永山貞義(69)だ。法大に進学後、地元の中国新聞社に入社。運動部員、運動部長、編集委員などを経て、現在はフリーライターとして活躍している。

 「個の否定、全体で勝つ野球をたたき込まれた」と永山。極限での平常心を追求する過程では「先輩、後輩の関係も厳しかった。畠山監督は見て見ぬふり。そこで残るのが、気持ちの強い選手、という考え方でしたよ」と言う。

 しかし、ただのスパルタではない。とことん野球を研究する。研究した成果は当然、選手たちに猛練習を通じて伝えられるが、そこにとどまらないところに畠山の価値がある。

 毎年2月、「如月会」と称して、日本全国で野球の勉強会を行っていた。70人を超える指導者が、畠山門下生として“広商野球”を受け継いだ。PL学園・鶴岡泰、宇和島東・上甲正典らの名前もあった。広商野球=高校野球。そんな時代が、確かにあった。

全国に恐れられた戦法

 全国に恐れられ、その後に広がっていった“広商戦法”

◆ダブルスチール◆

夏連覇を果たした1930年の2回戦。1点を追う9回無死一、二塁で石本監督が敢行し、逆転勝利につなげた。

◆空振りスクイズ◆

打倒・江川のために行った練習。無死か1死の二、三塁で走者がスタートし、打者が空振りして捕手が三走にタッチする隙に二走が生還する。「バントもできん」(迫田)という江川の剛速球の逆手を取ろうとした。公式戦では使われていない。

◆3バント◆

「そのカウントで決められたら相手バッテリーは嫌」(迫田)。精度を上げるため、練習では右打者は左打席で、左打者は右打席で。他の選手全員が大声でヤジる中、1球だけ、というバント練習を行った。

◆偽投◆

57年西中国大会決勝。ライバルの広陵に3-0から1点差に追い上げられ、9回無死二塁から広陵の打者がセーフティー気味のバントを三塁前へ。ここで三塁手がとっさに一塁へ偽投。三塁をオーバーランした走者を刺し、ピンチを脱した。

広商野球=カープの野球といった時代もありました。三村・大下時代は特に広商出身でしたからね!

まとめ

広商野球部メンバー2019出身中学と荒谷忠勝監督の経歴は?夏の甲子園優勝は。について記事にしました。甲子園での活躍!楽しみです~♪

コメント

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