2024年11月13日、NBA選手の八村塁(はちむら るい)さんが日本バスケットボール協会と、トム・ホーバス監督に対して苦言を呈したことが、注目を集めています。
この騒動の発端となっているのは、2023年9月のW杯後のトム・ホーバス監督の八村塁(はちむら るい)さんに対する発言だったようです。
しかし、これは日本語が堪能でないトム・ホーバス監督に言葉足らずな部分があっただけのことだったようで、根本的な原因はコミュニケーション不足にあったとみられています。
八村塁(はちむら るい)さんは、日本バスケットボール協会に対しての不信感も露わにされており、日本バスケットボール協会の今後の対応が重要になってきそうですね。
そんな日本バスケットボール協会で会長を務めているのが、元バレーボール女子日本代表の三屋裕子(みつや ゆうこ)さんです。
元バレーボール選手である三屋裕子(みつや ゆうこ)さんが、なぜバスケットボール協会の会長を務めているのか、気になりますね。
そこで今回は『三屋裕子は元バレー女子日本代表!バスケットボール協会会長になったのはなぜ?』と題し、三屋裕子さんがバスケットボール協会の会長となった経緯についてご紹介します。
三屋裕子は元バレー女子日本代表!攻撃型センターとして活躍!
三屋裕子さんは、元バレーボール女子日本代表だった方です。
身長は177cmと、バレーボール選手としてはあまり高い方ではありませんでしたが、最高到達点は308cmと高く、現在の日本代表のミドルブロッカーの選手とほぼ同じ高さでした。
すごい運動能力ですよね。
ここからは、そんな三屋裕子さんの現役時代についてご紹介します。
三屋裕子は中学でバレーボールを始める
こちらの写真の前列右が、中学時代の三屋裕子さんです。
三屋裕子さんがバレーボールを始めたのは、中学生になってからでした。
中学校に入学した時には、既に身長が170cmあったという三屋裕子さんは、当時はその身長がコンプレックスでしかなく、背が高いことで小学時代にいじめられたこともあったそうです。
劣等感満載の私に、当時バレー部の監督だった先生が、
「いくら自分の身長が嫌でも、一生それと付き合っていかないといけない。イヤだと思えばただの欠点、使えば財産に変わる可能性が生まれる。人間考え方一つで人生も変わるんだぞ!」
「こんなもの、何に使えるんですか?」
「バレーやれ、バレーやったら、欠点だと思っていたものが財産に変わる。」
この言葉で、私の人生決まりました!
中学時代にはその恵まれた体格を生かし、メキメキ上達していったようです。
そして中学を卒業後、バレーボールの名門として知られる八王子実践高校に進学して活躍しましたが、高校を卒業後は実業団チームには入部せず、筑波大学に進学しています。
当時は、実力のある選手は高校を卒業と同時に実業団チームに入るのが普通とされていた時代だったので、大学進学という三屋裕子さんの選択はかなり珍しいものでした。
私は、選手・三屋裕子にとってはバレーボールが『一丁目一番地』ですが、バレーを終えた後の人生のほうが長い、と思ったんですね。
それで、国立大学(筑波大)に行くという、あの頃ではあり得ない選択、我流の生き方を選びました。
(引用元:THE ANSWER)
この頃から、現役を引退後の人生について考えておられたんですね。
三屋裕子は大学時代に全日本代表入り
こちらの写真の左から2番目が筑波大学時代の三屋裕子さんです。
八王子実践高校を卒業後、筑波大学に進学した三屋裕子さんは、ユニバーシアードに3回出場(1977年、1979年、1981年)するなど、大学の星として注目を集めました。
そして大学在学中の1979年に、全日本代表入りを果たしています。
しかし、1980年のモスクワ五輪には、ボイコットのため出場することができませんでした。
その後、1981年に日立製作所に入社し、女子バレーの名門・日立女子バレーボール部の黄金期の主力メンバーとして活躍されました。
全日本代表としては、1981年の東京ワールドカップで活躍したことが注目され、爽やかな笑顔の美人プレイヤーとして女子バレー人気の火付け役となりました。
三屋裕子さん、今🏀協会会長されてるのか、知らなかった
🏐現役時代好きだったなあ、かっこよかったんですよ😊— 弓之 (@aoiro137) September 9, 2023
こちらの写真が、現役時代の三屋裕子さんです。
(画像引用:日本経済新聞)
確かにめちゃくちゃ綺麗ですね!
三屋裕子はロス五輪で銅メダルを獲得
(画像引用:文春オンライン)
三屋裕子さんは、1984年のロサンゼルスオリンピックに日本代表として出場し、銅メダルを獲得しています。
しかし当時の日本代表は、金メダルだけを目標にしていました。
結果については、当時満足してはいませんでした。
というのも、女子バレーは1964年にオリンピック正式種目になってから、
1976年のモントリオールまでは全て決勝に進んでいて、悪くても銀メダルという競技でしたので、「史上最低の銅メダル」だと思っていました。
(引用元:筑波大学基金)
銅メダルでも十分すごいと思いますが、当時は「日本に帰れない」と思うほどのショックがあったそうです。
当時26歳だった三屋裕子さんは、次のオリンピックを目指すのかと思いきや、ロサンゼルスオリンピックの2週間後に突然現役引退を発表し、日立製作所も退社しています。
26歳での引退は早すぎる気もしますが、三屋裕子ご自身は引退することを決めてロサンゼルスオリンピックに臨んでいたようです。
三屋裕子がバスケットボール協会会長になったのはなぜ?
(画像引用:THE ANSWER)
中学時代にバレーボールを始めてから現役を引退するまで、バレーボール漬けの日々を送っていたという三屋裕子さん。
ではなぜ今、バスケットボール協会の会長を務めていらっしゃるのでしょうか。
ここからは、現役引退後の三屋裕子さんについて紹介していきます。
三屋裕子はバレーボールを引退後教職に就いていた
三屋裕子さんは、日本代表として活躍していた現役時代から、引退後の人生のために準備をされていました。
私は五輪の2週間後には学校の先生になっていました。
現役時代は、国内外へ遠征をしながら教員採用試験の勉強をしていましたし、
採用試験を受けるために、遠征先のブラジルから一人、帰国したこともありました。
そういったチャレンジを許してもらえたことは、ものすごくありがたかったですし、今の私がある最大の理由です
(引用元:THE ANSWER)
国内外の遠征だけでも大変そうですが、さらに教員採用試験の勉強までされていたなんてすごいです。
三屋裕子さんは、もともと教職を希望されていたそうで、自分の夢のためには努力を惜しまない方のようですね。
そして現役を引退後、1984年9月から実際に國學院高等学校で体育教師を務め、翌年の1985年からは学習院大学助手、1987年に同大学で講師に就任しています。
学習院大学ではバレーボール部の指導をする傍ら、全日本ジュニアチームのコーチも務めていました。
そんな中、1992年には筑波大学大学院に進学し、その後、筑波スポーツ科学研究所副所長に就任されています。
三屋裕子は上場企業の社長に就任
(画像引用:四国新聞)
三屋裕子さんは、日本スポーツ界初の上場企業の社長経験者としても知られています。
「訪問販売会社シャルレ」の社会貢献活動に参加していたことがきっかけで、2004年4月に同社の顧問となった三屋裕子さんは、同年6月29日付で「訪問販売会社シャルレ」の社長に就任されました。
しかし、2007年には株主総会で社長職を解任されており、この時の記者会見では「1980年のモスクワオリンピックにボイコットで出場出来なかった時と同じような気分」と涙ながらに語っています。
とはいえ、アスリート・指導者・経営者という多方面での実績を見に付けたことで、三屋裕子さんはその後も活動のフィールドを広げ、現在までさまざまな分野で活躍を続けていらっしゃいます。
三屋裕子は川淵三郎の推薦でバスケットボール協会会長に就任
(画像引用:日刊スポーツ)
三屋裕子さんは、川淵三郎さんに声をかけられたことをきっかけに、1998年から日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)で理事を務めていました。
「あるテレビ番組で、これからのスポーツは地域が支えていくものとコメントする私を、どこかでご覧になったみたいなんです」と三屋さん。
当時は実業団や学校が選手を育てることが〝当たり前〟とされていた時代で、「地域」といわれてもピンとくる人が少ない中、川淵さんは共感し、同じ価値観を持つ三屋さんに声を掛けてきた。
(引用元:日商Assist Biz)
三屋裕子さんは、川淵三郎さんから電話でJリーグの理事に誘われた際、「勉強させてください」と二つ返事でOKし、スポーツ界の理事としてのキャリアをスタートさせたのだとか。
Jリーグでは12年間お世話になり、グローバルスポーツとしての考え方や日本のプロスポーツの立ち上がっていくところを見させてもらい、すごく勉強になりました。
(引用元:THE ANSWER)
そして、2007年4月から2013年6月までの間は日本バレーボール協会の理事も務めていました。
バスケットボール協会の前は、バレーボール協会で理事を務めておられたんですね。
そんな三屋裕子さんがバスケットボール協会で理事を務めることになったきっかけも、川淵三郎さんでした。
川淵さんが日本バスケットボール協会(JBA)の会長を引き受ける際(2015年)も、副会長をやらないかと声を掛けて頂きました。
そうやって、いろんな場を作ってくださいましたし、そのたびに、必死についていきました。
(引用元:THE ANSWER)
当時の日本バスケットボール協会は、ガバナンスが問題視され、国内男子トップリーグの分裂などさまざまな問題を抱えていました。
FIBAからは、国際資格停止処分を受けるほどの最悪な事態に陥り、選手は性別・年齢を問わず国際試合に出場することができないという最悪の状況にありました。
川淵三郎さんは、大改革を進めていく上で、バスケットボール経験者ではない人が理事に必要だと考え、三屋裕子さんに副会長をしないかと声をかけたようです。
この頃の三屋裕子さんは、バスケットボール協会の状況についてニュースで知る程度だったこともあり、声をかけられたことに本当に驚いたそうです。
しかし、川淵三郎さんから「迷惑は掛けないから」とダメ押しされ「まずは1年」と承諾することに決めたのだとか。
その後、川淵三郎さんがバスケットボール協会会長を退く際に、後任に指名したのが三屋裕子さんでした。
Bリーグの発足、資格停止処分の解除など急ピッチで改革が進められる中、
川淵さんが自ら設けた定年規定で1年の任期を終了し、その意志を継いでほしいと指名されて、会長に三屋さんが立った。
(引用元:日商Assist Biz)
こうして、川淵三郎さんの意思を受け継ぐ形で、2016年6月に三屋裕子さんが日本バスケットボール協会の会長に就任されました。
元バレーボール選手だった三屋裕子さんが、バスケットボール協会の会長を務めているのは、川淵三郎さんがいたからなんですね。
三屋裕子のプロフィール
(画像引用:JOC)
名前:三屋裕子(みつや ゆうこ)
生年月日:1958年7月29日
年齢:66歳(2024年12月現在)
出身地:福井県勝山市
身長:177cm
体重:61kg
血液型:A型
まとめ
日本バスケットボール協会会長の三屋裕子さんについてまとめました。
八村塁さんの発言から17日後、三屋裕子さんが騒動について初言及し、今後は海外で活躍する選手とのコミュニケーションを円滑にするために、担当の窓口や責任者を設ける考えを明かしています。
今後の日本バスケットボールの発展のためにも、三屋裕子さんにはこの問題にしっかり対応していただきたいですね。
また、八村塁さんが今後も日本代表としてプレーするのかどうかも、気になるところです。
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