黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さんは、日本史上最初のテレビ出演者の一人として知られています。
日本でテレビ放送が始まった初日からテレビに出演されていて、テレビ草創期から現在まで、70年以上第一線で活躍を続けているなんて、すごいですよね。
現在の日本で、黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さんを知らない方はいないのではないかと思います。
そんな黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さんの若い頃をご存知ですか?
70年近く前ともなると、見たことがない方が多数だと思います。
実は若い頃の黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)さん、とっても美人でかわいいんです。
そこで今回は、『黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!幼少期から現在までを時系列に紹介!』と題し、黒柳徹子さんについて時系列でご紹介します。
- 【画像】黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!幼少期から女優デビューまで
- 【画像】黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!女優時代から現在まで
- 『第9回NHK紅白歌合戦』で紅組司会:1958年(25歳)
- 第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞:1961年(28歳)
- 文学座附属演劇研究所3期生として入所・NHKを退社:1961年(28歳)
- ニューヨークへ留学・恋人ワイセンベルクに出会う?:1971年(38歳)
- 『徹子の部屋』放送開始:1976年(43歳)
- TBSテレビ『ザ・ベストテン』放送開始:1978年(45歳)
- 著書『窓ぎわのトットちゃん』出版:1981年(48歳)
- 高額納税者番付の俳優・タレント部門で1位:1981年~1985年・1987年(54歳)
- ユニセフ(国際連合児童基金)親善大使になる:1984年(51歳)~
- クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』放送開始:1986年(53歳)~
- 「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」受賞:1991年(58歳)
- 第38回毎日芸術賞・第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞:1997年(64歳)
- 「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞:2010年(77歳)
- 右大腿骨骨折し手術:2017年(84歳)
- 黒柳徹子の現在(90歳の誕生日):2023年8月9日
- 【画像】黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!タマネギ頭はいつから
- 【画像】黒柳徹子のプロフィール
- まとめ
【画像】黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!幼少期から女優デビューまで
黒柳徹子さんは、幼少期から好奇心旺盛でお転婆な女の子だったそうです。
特に女優を志望していたわけではなかった黒柳徹子さんが、日本史上最初のテレビ女優になるまでには、一体何があったのでしょうか。
黒柳徹子さんの幼少期からデビューまでを時系列でご紹介します。
こちらの動画では、黒柳徹子さんがご自身のデビューから現在までを振り返っていらっしゃいます。
黒柳徹子の幼少期
(画像引用:モデルプレス)
黒柳徹子さんは、ヴァイオリニストの父・黒柳守綱さんと、声楽家でエッセイストの母・黒柳朝さんの間に、4人兄弟の長女として生まれました。
裕福な家庭で何不自由なく育てられた黒柳徹子さんですが、幼少期は周りからかなり変わった子だと思われていたようです。
もともと家の近くの小学校に通っていて、1年生を3か月ぐらい過ぎたころに退学になったんです。
なんで退学になったかというと、『窓ぎわのトットちゃん』にも書いてありますが、
小学校にチンドン屋さんを呼び込んだり、
おもしろがって机のフタを(昔の学校の机は上に開いたから)授業中に百回ぐらい開けたり閉めたりしちゃったの。
つばめが巣を作って、行ったり来たりしているのを見て、授業中に窓から身を乗り出して
「何してるの」「何してるの」と何度もつばめに聞いたりもしたらしい。
それで母が先生に呼び出されたんです。
先生は「私も子どもの気持ちがわからないわけじゃないですから、つばめに『何してるの』と聞いてもいいけど、授業中に聞くことはないんじゃないですか」って、
本当におたくのお嬢さんには困っているということを母に言ったそうなんです。
それでその学校は辞めることになり、新しい学校に行くことになりました。
(引用元:STEP UP SCHOOL)
黒柳徹子さんは家の近所にあった小学校に入学したものの、たった3ヶ月で退学になってしまったんですね。
後に黒柳徹子さんは、自身が発達障害であることを公表しており、幼少期の落ち着きのない行動などから、ADHDではないかと言われています。
現在は発達障害への支援や理解が進んでいますが、黒柳徹子さんの幼少期には全くなかったでしょうから、普通の小学校での集団行動はしんどかったでしょうね。
黒柳徹子の小学校時代
サングラスの子の左に写っているのが黒柳徹子さんです。
(画像引用:LEE)
近所の小学校を退学になってしまった黒柳徹子さんですが、母は幼い黒柳徹子さんに退学のことを伝えずに、違う小学校を探してくれたそうです。
それが、『トモエ学園』でした。
トモエ学園は、黒柳徹子さんのエッセイ「窓際のトットちゃん」の舞台となった小学校です。
黒柳徹子さんが初めてトモエ学園に登校した日、校長の小林宗作先生は「何でも話してごらん」と声をかけてくださったのだとか。
6歳の私は、喜んで本当にいろんなことを話しました。
話がもうなくなってしまい、校長先生に「もうない」と言ったら、
「じゃあ、みんなと弁当を食べに行こう」と先生が言ったので、
学校に着いた朝8時ごろから12時ごろまでの4時間にわたって、私のお話を聞いてくださったみたいなんです。
そのとき私は6歳でも、小林先生を「いい人だ」と思ったの。
(引用元:STEP UP SCHOOL)
子供の話を遮ることなく4時間も聞き続けるなんて、なかなかできることではありませんよね。
校長の小林宗作さんは黒柳徹子さんに「君は本当はいい子なんだよ」と毎日言ってくれたのだそうです。
この言葉のおかげで、黒柳徹子さんは「私はいい子なんだ」と思って成長することができたのだとか。
でも大人になってから、「本当は」とついていたことに気付いてしまったそうです。
実は、小林宗作さんは日本のリトミックの先駆者としても知られる方です。
最近ではリトミックを取り入れている幼稚園や保育園も多いですが、戦前のこの時代にはまだあまり認知されていませんでした。
おそらく、黒柳徹子さんの母は黒柳徹子さんに合う学校を必死で探されたのではないかと思います。
トモエ学園は人数の少ない学校で、全校児童は50人、黒柳徹子さんのクラスは8人だったそうです。
小規模のクラスが、黒柳徹子さんには合っていたのでしょう。
校庭に並んだ電車の車両が教室になっていて、自分の好きなところから勉強していくスタイルも黒柳徹子さんには魅力的だったそうです。
近所の小学校は退学になってしまった黒柳徹子さんですが、そのおかげで恵まれた環境で学ぶことができたんですね。
うちの母は本当に子どもの気持ちがよくわかる人でした。
私が退学になったことも、20歳になったときに初めて教えてくれたんです。
6歳のときに「退学になったのよ」なんて言わないで、「違う学校に行ってみましょう」と言ったそうなんです。
でも、もしそこで「退学になった」と母から言われたら、トットちゃんの学校に行ったときに、電車の教室を見ても、やっぱりうれしくなかったと思うんです。
「みんな、私が退学になったこと知ってるかな?」とか思って。
でも、母はそうは言わなかったです。
私、母にしても校長先生にしても、子どもを一人の人間として接してくれる大人に囲まれて育ったんですよね。
(引用元:STEP UP SCHOOL)
黒柳徹子さんの自己肯定感が下がらなかったのは、黒柳徹子さんのことを理解してくれる母や小林宗作さんのような先生との出会いがあったからなのでしょうね。
黒柳徹子の中学・高校時代
黒柳徹子さんは戦争中、1945年3月の東京大空襲をきっかけに青森県三戸郡の諏訪ノ平に疎開していましたが、終戦後の1945年8月には東京に戻っています。
東京に戻り、トモエ学園を卒業した黒柳徹子さんは香蘭女学校に進学しました。
香蘭女学校は中高一貫の私立の女子校で、富裕層の子女が多く在籍するお嬢様学校として知られていました。
そして、黒柳徹子さんの香蘭女学校の6学年先輩には、旅行ジャーナリストとして知られた兼高かおるさんがいらっしゃいました。
兼高さんは、大変に美しい方で、私の女学校の先輩でしたが、
バザーなどで、卒業した兼高さんがいらっしゃる事がわかると、
私たち在校生は、門から一列に並んで、キャーキャー言いながらお迎えをしたくらいの、
私たちにとって大スターでした。
(引用元:日刊スポーツ)
兼高かおるさんは海外を取材するとき、その国々の色々な習慣や違った文化の中にどんどん入っていって現地の人たちと交流していく行動力のある方でした。
そんな兼高かおるさんの姿は、後の黒柳徹子さんのユニセフ親善大使としての活動にも大きな影響を与えたそうです。
黒柳徹子の東洋音楽専門学校時代
(画像引用:東京音楽大学校友会)
香蘭女学校を卒業した黒柳徹子さんは、東洋音楽専門学校(現在の東京音楽大学)声楽科に進学しました。
東洋音楽専門学校は、黒柳徹子さんの母・朝さんの母校でもあります。
黒柳徹子さんは、オペラ歌手になりたくて東洋音楽専門学校への進学を決めたそうです。
私は高校生の時に『トスカ』という映画を観て、それがオペラだということが分かり、
あのような人になりたいと思い、どうすればなれるのか家の人に聞きましたところ、
母が東洋音楽学校出身だったので色々と詳しくて、
それには音楽学校に入らなければならないということが分かりました。
(引用元:TCM)
他の音楽学校も考えたそうですが、家から通いやすいという理由で、母と同じ東洋音楽専門学校に決められたのだとか。
東洋音楽専門学校に在学中は、学校の前のラーメン屋さんで35円のラーメンを食べたり、焼き芋を食べながら友達と将来の話をしたり、楽しい思い出がたくさんあるそうです。
しかし、友人たちが次々と卒業後の進路を決める中、黒柳徹子さんは卒業間際になっても就職先が決まらずにいました。
私はもうだめだなと思い、このまま結婚でもするんだろうな、と思いながらプラプラ歩いていたら、
ちょうど人形劇を見まして、その人形劇が素晴らしかったので、
自分の子供にもこんな人形劇を見せてあげたら喜ぶに違いないと思って、
人形劇を教えてくれるところはないかと探しました。
(引用元:TCM)
黒柳徹子さんはこの人形劇がきっかけでNHKの試験を受けることになるのですが、自分の子供に人形劇を見せてあげようと思ったことが動機とは驚きですね。
NHK放送劇団に入り女優デビュー:1953年(20歳)
(画像引用:NHK)
東洋音楽専門学校に在学中に偶然見た人形劇に影響された黒柳徹子さんは、オペラ歌手の道を諦め、人形劇を教えてくれる場所を探していました。
「音楽学校を卒業してオペラ歌手になれないことが分かったので、
自分の子どもに人形劇や絵本の読み聞かせを上手にできるお母さんになろうと思ったんです。
そんなときNHK放送劇団の俳優募集が新聞に出ていて、素人でも1年間養成してくれると書いてありました。
ひょっとしたら絵本の読み方も教えてくれるかもしれないと応募したんです。
一日だけの記事。
これが運命の分かれ道でした」。
(引用元:NHK)
このNHK放送劇団には約6000人の応募者がいて、6次まであった審査を経て黒柳徹子さんを含む13人が合格しました。
倍率460倍以上の狭き門を突破したんですね。
こうして黒柳徹子さんは、テレビ放送開始を翌月に控えた1953年1月にNHK放送劇団の一員となりました。
「最初は『東京ブギウギ』を歌う笠置シヅ子さんの後ろを通る娘の役でした。
それすら下手で、何度も怒られて…。
どうしても面白いから笠置さんのことを見ちゃうんですよね。
そうすると『ジロジロ見ないでスッと歩いて』と指示される。
頑張ってスッと歩いたら今度は
『テレビの画面は小さいから、そんなに早く歩いたら写らないよ』って(笑)。
そのとき笠置さんが『大変でんなぁ』と言ってくださったんです。
その後もすいぶんかわいがっていただきましたね」。
(引用元:NHK)
笠置シヅ子さんは、2023年10月から放送中のNHKの朝ドラ『ブギウギ』で、女優の趣里さんが演じている花田鈴子のモデルになった方です。
黒柳徹子さんはその後も、ラジオやテレビに通行人として出演し、現場を学んでいったそうです。
ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』で主演デビュー:1954年(21歳)
1954年、黒柳徹子さんはNHKのラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』で、主演の三兄弟の一人である「トン坊」を演じました。
この『ヤン坊ニン坊トン坊』は、黒柳徹子さんにとって初の主演作品です。
現在では、男の子の声を女性声優が演じることは珍しくありませんが、女性が男の子の声を演じることを日本で初めて試みたのが、この『ヤン坊ニン坊トン坊』だったそうです。
黒柳徹子さんは、日本で初めて男の子を演じた女性声優の一人だったんですね。
元々この『ヤン坊ニン坊トン坊』のオーディションは、「大人で子供の声を出せる人」を見つけることを目的に行われました。
当時のラジオドラマが生放送であったこともあり、子供には無理だろうと考えた作者の飯沢匡さんは、周囲の反対を押し切って、イチかバチか大人の女性に子供の声を出してもらおうと考えられたのだとか。
オーディションは、審査員の先入観をなくすために女優さんの顔をついたてで隠して行われたそうです。
そこで選ばれた声優の一人が黒柳徹子さんだったんですね。
黒柳徹子さんは、1954年4月11日〜1957年3月31日までの3年間トン坊を演じ、一躍有名になりました。
テレビ女優としてデビューした黒柳徹子さんですが、テレビではなくラジオ番組で有名になったんですね。
【画像】黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!女優時代から現在まで
(画像引用:モデルプレス)
初主演作品の『ヤン坊ニン坊トン坊』トン坊を演じ一躍有名となった黒柳徹子さんは、ヤン坊役の里見京子さん、ニン坊役の横山道代さんと共に「NHK三人娘」と呼ばれ人気者となりました。
ピーク時には、テレビとラジオのレギュラーが週に10本を超えていたのだとか。
この頃は、寝る間もないほど忙しくされていたそうです。
ここからは、黒柳徹子さんが女優として人気を博した20代から現在までを時系列にご紹介します。
『第9回NHK紅白歌合戦』で紅組司会:1958年(25歳)
(画像引用:NHK)
黒柳徹子さんが紅白歌合戦の司会を初めて務められたのは、1958年のことでした。
『紅白歌合戦』の司会を初めて担当したのは仕事を始めて5年目くらいのとき。
私は25歳くらいで、最年少の司会者といわれました。
当時はまだNHKホールはなく、新宿コマ劇場(1958年・第9回)を借りて放送していました。
(引用元:NHK)
当時は出演者の歌手の方々が、紅白とダブって別の仕事の予定を入れていることも珍しくなく、番組開始時間になっても出演者の方がいらっしゃらないこともあって、本当に大変だったそうです。
リハーサルから念入りに行うという現在では考えられないですよね。
そして黒柳徹子さんは、初司会から22年が経った1980年に再び紅組の司会者に抜擢されました。
(画像引用:NHK)
この時、最初に司会をした頃とは全く様子が変わっていてとっても驚かれたそうです。
それから1983年まで、4年連続で紅組の司会に選ばれていらっしゃいます。
そしてそれからさらに35年後、今度は総合司会として紅白歌合戦の舞台に立たれました。
(画像引用:NHK)
紅白歌合戦の司会回数通算6度は、NHKアナウンサー以外の女性では最多記録なのだそうです。
第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞:1961年(28歳)
(画像引用:Vogue Japan)
黒柳徹子さんは1961年、 第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞しています。
この日本放送作家協会賞は、日本放送作家協会が主催となり、ラジオやテレビ番組、演出家、演技者などの中から優秀な人を表彰した賞です。
日本放送作家協会賞は、1961年の第1回から1974年の第14回まで開催されていました。
ちなみに、第4回の男性演技者賞に藤田まことさん、第8回の男性演技者賞に渥美清さん、第10回の女性演技者賞に森光子さんなど、錚々たる顔ぶれの方々がこの賞を受賞されています。
黒柳徹子さんはそんなすごい賞で、記念すべき第1回の女性演技者賞を受賞されたんですね。
文学座附属演劇研究所3期生として入所・NHKを退社:1961年(28歳)
(画像引用:日刊スポーツ)
20代後半の頃、黒柳徹子さんは多忙を極めていました。
テレビやラジオのレギュラーが週に10本以上もあり、なんと平均睡眠時間は3時間という毎日を過ごしていたそうです。
そしてついに、過労で倒れ入院するまでになってしまいます。
入院を機に、一旦はすべてのレギュラー番組を降板することとなった黒柳徹子さんですが、退院後は再び以前と変わらない多忙な日々を送っていました。
そんな日々を送るうち、黒柳徹子さんは共演者の俳優さんたちのようにもっと演技がうまくなりたいと思うようになったそうです。
黒柳徹子さんは初めから女優を志していたわけでありませんでしたが、自分も縁あって女優の仕事をしているのだから、もっと上手にお芝居がしたいと考えるようになっていったのだとか。
そして、共演者の俳優さんたちがなぜ演技が上手なのかを考えたところ、彼らには舞台経験があるという共通点を見つけたそうです。
そこで黒柳徹子さんは、文学座の創設者の一人である杉村春子さんに、文学座に入りたいと相談を持ちかけます。
杉村春子さんは、黒柳徹子さんの文学座入りを快諾してくれたのですが、文学座の俳優・宮口精二さんの反対に合い、黒柳徹子さんは文学座に入団することは出来ませんでした。
それでも黒柳徹子さんは、1961年に創設された文学座附属演劇研究所に3期生として入所することを決め、NHKを退社して演技を学ぶ道を選びます。
この文学座附属演劇研究所の同期には、江守徹さんや高橋悦史さんがいらっしゃったそうです。
ニューヨークへ留学・恋人ワイセンベルクに出会う?:1971年(38歳)
(画像引用:Vogue Japan)
黒柳徹子さんは、1970年に出演したミュージカル『スカーレット』でブロードウェイのスタッフと仕事をして親しくなります。
この時、作曲家のハロルド・ロームさんの妻・フローレンスさんから「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい」と誘われ、もっと演技の勉強がしたいとニューヨークへの留学を決意しました。
そして、黒柳徹子さんは1971年9月から1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームで生活を始めました。
(画像引用:文春オンライン)
ニューヨークでは、初めての一人暮らしに戸惑いながらも、「メリー・ターサイ演劇スタジオ」に通って演技を学ばれていたそうです。
そして、黒柳徹子さんはこの頃に、恋人のピアニスト・ワイセンベルクさんと出会ったのではないかとみられています。
2012年まで40年間続いたという遠距離恋愛だったが、結婚はしなかった。
「才能のある人。優しい。見場(見栄え)がちょっといい。
しょっちゅう会っているわけじゃなかったけど、話が合いました。
言っちゃってもいいけど、ピアニストです。
話す時は全部、英語でした」
とお相手について明かすと
「デートは海外です。彼がいるところに私が行くわけですから、スリル満点でしたよね」
と続けた。
(引用元:スポーツ報知)
ワイセンベルクさんから「一緒にパリに来てほしい」とプロポーズされたこともあったそうですが、黒柳徹子さんは日本に帰国して仕事を続ける道を選びます。
そして、ワイセンベルクさんとの遠距離恋愛が始まりました。
黒柳徹子さんは合間を見つけてはワイセンベルクさんに会いに行っていたそうですが、それでも会えるのは年に1〜2回ほどだったそうです。
交際中、ワイセンベルクさんが『徹子の部屋』にゲスト出演されたこともあり、その時の仲の良い様子から結婚が噂されたこともありました。
ワイセンベルクさんが来日した時には、六本木を手を繋いで歩いたこともあるのだとか。
特に交際を隠していたわけではないようですね。
結婚はされなかったものの、ワイセンベルクさんが亡くなるまで40年間も恋人同士でいたなんて、お二人の繋がりはよほど深いものだったのでしょう。
『徹子の部屋』放送開始:1976年(43歳)
(画像引用:日本経済新聞)
黒柳徹子さんといえば、『徹子の部屋』を思い浮かべる方も多いと思います。
『徹子の部屋』は1976年2月2日にスタートし、2023年で放送開始から47年を迎えており、「同一の司会者による番組の最多放送回数記録」としてギネス世界記録にも認定されています。
帯番組で47年、凄すぎますね。
黒柳徹子さんは2015年5月27日に、『徹子の部屋』が放送回数通算10000回を達成した際、「とりあえず50年まで。」と放送50周年まで番組を続けたいと目標を掲げています。
このままいけば、本当に放送開始から50周年を迎える時が見られるかもしれませんね!
TBSテレビ『ザ・ベストテン』放送開始:1978年(45歳)
(画像引用:TBS)
『ザ・ベストテン』はTBSで1978年1月から1989年9月まで毎週生放送されていた歌番組です。
黒柳徹子さんは、この番組の初回放送から最後まで司会として出演され続けていました。
黒柳サンは、山田サンから司会のオファーを受けた際、
引き受ける条件として「絶対にランキングに嘘を付かないこと」と注文を付けたそう。
(引用元:リマインダー)
司会を引き受ける条件がカッコ良すぎますね。
そんな『ザ・ベストテン』は全盛期には25〜35%という高視聴率を誇り、全604回の放送の平均視聴率も23.9% という驚異的なものでした。
この頃は、「ザ・ベストテンにランクインして曲を披露すること」が歌手達のステータスとなっていたほど、影響力のある番組だったようです。
最終回である1989年10月5日の「さようならザ・ベストテン」の視聴率は20.5%を記録し、『ザ・ベストテン』は伝説の歌番組として語り継がれています。
著書『窓ぎわのトットちゃん』出版:1981年(48歳)
1981年3月6日に講談社から発行された『窓際のトットちゃん』は、黒柳徹子さんが自身の幼少期を綴ったノンフィクション作品です。
「窓ぎわのトットちゃん」は、黒柳徹子さんが幼い頃の体験を元に書いた自伝的な物語です。
黒柳さんが小学1年生のときに転校した東京の学校で出会った先生や友人たちとの思い出が描かれていています。
落ち着きがないことを理由に小学校を退学になった主人公のトットちゃんが、
かつて東京・自由が丘に実在したトモエ学園に転校し、
生き生きとした学校生活をおくる姿を描いています。
子どもたちの生き生きとした姿や自由な校風が世代を超えて親しまれ、
作品は20以上の言語で翻訳され、国内外の発行部数は2500万部を超えています。
(引用元:NHK)
こちらの動画では、黒柳徹子さんご本人が、窓際のトットちゃんの誕生秘話を話されています。
『窓際のトットちゃん』は、日本国内での累計発行部数が800万部を突破しており、戦後最大のベストセラーと称されています。
そして2023年10月3日、『続 窓際のトットちゃん』が刊行されました。
続編では、黒柳さんが東京大空襲のあとに青森に疎開し、
その後、音楽学校を卒業してNHKの専属女優になってニューヨークに留学するまでの日々がつづられています。
(引用元:NHK)
さらに、2023年12月8日には映画『窓際のトットちゃん』が公開される予定となっています。
これまで数々の映画化オファーが届くも、
「読者の頭の中にあるイメージを壊したくない」という黒柳の考えもあり、
映画、テレビドラマ、アニメなどすべての分野において映像化が実現することは一度もなかったが、
原作にほれこんだ八鍬監督が、アニメでの映画化を黒柳本人に直接オファー。
当初は黒柳に戸惑いがあったものの、イメージボードを手に何度も黒柳のもとを訪れ説得を重ねた八鍬監督の熱意が届き、
「アニメであれば原作を愛するファンの方々も喜んでくれるかもしれない」と快諾。
原作出版から40年の月日を経て映画化が実現した。
(引用元:映画.com)
『窓際のトットちゃん』初の映像化、とても楽しみですね!
高額納税者番付の俳優・タレント部門で1位:1981年~1985年・1987年(54歳)
1970年から2005年まで行われていた高額納税者公示制度では、政府が数千万~数億円単位の高額納税者を毎年公示していました。
毎年、高額納税者が公示されると、マスコミが職業別に順位をつけてワイドショーなどで取り上げていました。
黒柳徹子さんは、芸能人の高額納税者ランキングの常連で、1981年〜1985年までの5年間と、1987年に、俳優・タレント部門で納税額トップとなっています。
『窓際のトットちゃん』が世界的に大ヒットしたことで、黒柳徹子さんの納税額も爆上がりしたとみられており、なんと1981年の納税額は1億9910万円にものぼりました。
しかし黒柳徹子さんによると、当時の所得税の最高税率は75%だったため、住民税などと合わせると収入の90%以上を納税していたのだそうです。
85年には芸能人としては珍しく、政府の税制調査会に参考人で呼ばれたそう。
そこで「私の収入の90%が税金」「非常に勤労意欲を失う」「10%下げて欲しい」
などと主張したと話しました。
これが影響したかは不明ですが、87年に最高所得税率は60%に変更。2015年からは45%となっています。(引用元:LINE NEWS)
黒柳徹子さんの訴えが影響したかどうかは定かではありませんが、一部では黒柳徹子さんのおかげで高額納税者の所得税が下がったとも言われています。
ユニセフ(国際連合児童基金)親善大使になる:1984年(51歳)~
黒柳徹子さんは、1984年からユニセフの親善大使を務めています。
黒柳徹子さんががユニセフ親善大使に就任することになったきっかけは、当時国連人権委員会の日本政府代表だった緒方貞子さんが、ユニセフ事務局長を務めていたジェームス・グラントさんに『窓ぎわのトットちゃん』を紹介したことだったそうです。
黒柳徹子さんは、アジア人として初めてユニセフの親善大使に就任し、現在では最古参のメンバーになっています。
また、黒柳徹子さんは個人での募金活動も行っており、2014年の時点で募金総額は50億円以上にのぼりました。
黒柳徹子さんのもとへ寄せられた募金は事務費用などには一切使わておらず、全額がユニセフの本部へ送られ、子どものために使われているそうです。
また、黒柳徹子さんは2017年までほぼ毎年、アフリカやアジアなどの発展途上国を視察に訪れていました。
黒柳徹子さんの現在までの訪問国数は、30ヶ国にものぼります。
ユニセフ親善大使として精力的に活動を続けている黒柳徹子さんですが、ユニセフからの黒柳徹子さんへの年間報酬は1アメリカドルなのだそうです。
ほぼ無償で、40年近く発展途上国のために尽力されているなんて、本当にすごいことだと思います。
黒柳徹子さんが多くの人から尊敬される理由が分かりますね。
クイズ番組『世界・ふしぎ発見!』放送開始:1986年(53歳)~
(画像引用:exciteニュース)
TBSのクイズ番組『世界・ふしぎ発見!』。
2023年で放送開始から38年という長寿番組です。
黒柳徹子さんは、この『世界・ふしぎ発見!』に初回放送から現在まで出演され続けています。
番組を通じて、その博学さを世間に知らしめた“知の巨人”たる黒柳だが、その陰では並々ならぬ努力があるという。 黒柳さんは、国際感覚に優れているし、驚くほど勘がいい。 各解答者には番組でどんなテーマやエリアを取り上げるか伝えているのですね。 すると、黒柳さんは必ず図書館に行かれていました。 図書館で本を借り出して、10数冊読むこともあるとおっしゃっていました (引用元:オリコンニュース)
「第7回東京都文化賞」および「外務大臣賞」受賞:1991年(58歳)
黒柳徹子さんは1991年に第7回東京都文化賞と外務大臣賞を受賞しています。
東京都文化賞は、東京都が1985年から2005年まで制定していた賞で、漫画家の長谷川町子さんや、作家の橋田壽賀子さんらも受賞されたことがある賞です。
また同年、黒柳徹子さんは外務大臣からもその功績が認められ、個人で外務大臣賞を受賞しました。
外務大臣表彰は、多くの方々が国際関係の様々な分野で活躍し、
我が国と諸外国との友好親善関係の増進に多大な貢献をしている中で、
特に顕著な功績のあった個人および団体について、
その功績を称えるとともに、その活動に対する一層の理解と支持を国民各層にお願いすることを目的としています。
(引用元:外務省)
黒柳徹子さんが1989年から毎年秋に上演していた舞台『海外コメディシリーズ』での功績が認められたようですね。
『海外コメディシリーズ』は2018年秋の「ライオンのあとで」をもって幕を下ろしましたが、1989年から2018年までの30年の間に32作品が上演され、黒柳徹子さんのライフワークとなっていました。
第38回毎日芸術賞・第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞:1997年(64歳)
(画像引用:webザ・テレビジョン)
黒柳徹子さんは1997年に上演された舞台『マスタークラス』と『幸せの背くらべ』で第4回読売演劇大賞の大賞・最優秀女優賞を受賞しています。
黒柳徹子さんの海外コメディシリーズは、舞台芸術の世界でも高く評価されていたようですね。
「放送ウーマン賞」の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞:2010年(77歳)
2010年3月、黒柳徹子さんは『放送ウーマン賞』の日本女性放送者懇談会40周年特別賞を受賞しています。
『放送ウーマン賞』は1973年に創設された、放送業界で働く女性を対象とした賞でした。
また同年、黒柳徹子さんは文化功労者にも選ばれており、この年は黒柳徹子さんのこれまでの功績が高く評価された年となりました。
右大腿骨骨折し手術:2017年(84歳)
(画像引用:デイリースポーツ)
黒柳徹子さんは2017年9月28日、右大腿骨骨折の手術を受けたていたことをInstagramで公表しています。
同年8月末に骨折し手術を受けられたそうですが、骨折の原因や全治などの詳細は明らかにされませんでした。
そんな大怪我をしていたにも関わらず、黒柳徹子さんは、2017年9月29日から始まった舞台『想い出のカルテット』に車椅子で出演されています。
黒柳は劇中、すべて車いすで出演するため、舞台にはスロープが設置されるなど、若干の演出変更が行われた。
それでも、元々が腰を悪くした老女の役のため、車いす使用にも大きな問題はなし。
(引用元:デイリースポーツ)
幸いにも、役柄的に車椅子での出演で問題なかったようですね。
とはいえ、手術後すぐに稽古をされるのは大変だったと思います。
医者から許可をもらい手術からわずか10日でテレビや芝居の稽古にも復帰したと明かし
「足の経過は、順調で、骨が完全につくまでは、車いすを使っての生活になりますが、相変わらずの食欲とともに、毎日リハビリに励んでおります」
と元気な様子をつづっている。
(引用元:オリコンニュース)
当時84歳だった黒柳徹子さんですが、術後10日で稽古に復帰して舞台に立つなんて凄すぎますね。
黒柳徹子の現在(90歳の誕生日):2023年8月9日
(画像引用:VOCE)
2023年8月9日は、黒柳徹子さんの90歳の誕生日でした。
とてもお元気そうなので、90歳なんて驚きですよね。
そんな黒柳徹子さんは、75歳の時に90歳になったらしてみたいことを明かされていました。
黒柳が《90歳になったらね、『徹子の部屋』で、歯に衣着せずもっといろんなことが聞けると思うのよ》、
《100歳になったら、本気で政治家の話を聞いてみたい。100歳が訊くんだから本音をしゃべっていただけると思うの。それが楽しみ》
と語ったのはいまから15年前のこと(『婦人公論』2008年3月7日号)。
以来、90歳になったら政治の勉強を始めて、100歳で政治記者になるというのが彼女の目標となった。
それをいよいよ実行に移す年齢を迎えたことになる。
(引用元:文春オンライン)
【画像】黒柳徹子の若い頃が美人でかわいい!タマネギ頭はいつから
(画像引用:ライブドアニュース)
黒柳徹子さんのトレードマークといえば、タマネギ頭ですよね。
タマネギ頭以外の髪型をしている黒柳徹子さんは見た事がない気がしますが、一体いつからあの髪型をされているのでしょうか。
黒柳徹子さんのタマネギ頭の歴史を振り返っていきたいと思います。
タマネギ頭はいつから?
黒柳徹子さんといえばタマネギ頭ですが、デビュー当時からタマネギ頭をされていた訳ではありません。
若い頃の写真を見ると、普通のボブヘアの写真などが確認できました。
タマネギ頭にされていなくてもめちゃくちゃ綺麗ですね。
タマネギ頭のルーツについては、黒柳徹子さんご本人が番組で明かされています。
38歳のときに1年間休業し、ニューヨークに留学した黒柳。
この留学中、オードリー・ヘプバーンのヘアを担当したこともあるヘアスタイリスト・須賀勇介さんと出会い、こんな相談をしたという。
それが、「洋服でも和服でも似合う、世界に通用する髪型はないかしら?」というものだった。
そして須賀と一緒に開発したのが、たまねぎ頭。
以降50年以上、このヘアスタイルでテレビに出続けているが、
本人はこの「たまねぎ頭」のさらなるメリットとして、
「司会者は大体、後ろから映ることが多い」と解説。
その上で、ゲストとのトークなどでうなづく際、
「首がちょっと見えてるほうがいい」と持論を述べていた。
(引用元:RBB)
どうやらタマネギ頭は、38歳頃から定着したようですね!
しかも、司会者としてのお仕事のことまで考えられていた髪型だったなんて驚きです。
“たまねぎ頭”というネーミングについては
「ある日、久米宏さんが『たまねぎおばさん』って言って、“たまねぎ頭”になった」
と“由来”を語った。
髪の毛を下すと、「背中の下の方まである」とか。
(引用元:tv asahi)
タマネギ頭の名付け親は、『ザ・ベストテン』で一緒に司会を務めていた久米宏さんだったようです。
タマネギ頭をするには、やっぱりかなり髪の毛が長くないと出来ないんですね。
髪の毛を下ろした黒柳徹子さんも見てみたいです。
タマネギ頭には飴やピンマイクも入ってる
(画像引用:クランクイン!)
50年以上も黒柳徹子さんのトレードマークとなっているタマネギ頭。
実は前髪だけはウィッグなのだそうです。
90歳という年齢を考えると、前髪以外は地毛なことの方が驚きですが…。
そして黒柳徹子さんのタマネギ頭といえば、飴玉が入っているとか、ドラえもんの四次元ポケットみたいなものだとか、いろんな噂がありますよね。
実際にはどうなのでしょうか。
なんと、前髪部分にピンマイクが隠されていました。
せっかくの衣装の邪魔になるし、見た目的にも良くないと考え、この位置にピンマイクを付けることにしたのだとか。
ちなみに、コードは後ろに通して背中にあるそうです。
そして、本当にタマネギ頭から飴玉を出されたこともありました。
黒柳徹子の頭から飴が出てくるのを少し引いた顔で見る幼少期の慎太郎さん大好き pic.twitter.com/FD5gf5X4ou
— ぬた山 (@m___hoku18) January 7, 2022
2015年3月に、ももいろクローバーZが徹子の部屋にゲスト出演した際には、どら焼きを出して見せたことも。
黒柳徹子さんのタマネギ頭には、本当にお菓子が入っているんですね。
以前、歌手の青山テルマさんが徹子の部屋に出演された際に、タマネギ頭の中にお菓子が入っているという噂について質問された事がありました。
その時、黒柳徹子さんは自分の頭の中から実際に飴玉を3個出して見せ、「いつもはお煎餅も入っているんだけど、今日はないわ」と衝撃の発言をしています。
さらに、黒柳徹子さんをよく知るスタッフさんによると、黒柳徹子さんは昔からタマネギ頭をポケットの代わりに使っていて、海外に行くときにはパスポートを忍ばせていることもあるのだとか。
パスポートまで入るなんて、本当なら凄すぎます!
【画像】黒柳徹子のプロフィール
(画像引用:サンスポ)
名前:黒柳徹子(くろやなぎ てつこ)
生年月日:1933年8月9日
年齢:90歳(2023年11月現在)
出身地:東京府東京市赤坂区(現・港区)
血液型:A型
身長:163cm
まとめ
今回は、黒柳徹子さんについてご紹介しました。
女優にタレント、ユニセフ親善大使と、たくさんの顔をお持ちの黒柳徹子さん。
2023年現在90歳とご高齢ですが、まだまだ第一線で活躍され続けていらっしゃいます。
90歳の現在も帯番組の『徹子の部屋』を続けているのは、本当にすごいことだと思います。
ぜひ、『徹子の部屋』の50周年まで、頑張って頂きたいですね!
2023年12月に公開の映画『窓際のトットちゃん』も楽しみです!
コメント