東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会長の森喜朗さん。
女性蔑視発言やこれまでの様々な発言で問題となっており、記者会見を行いましたが2021年2月現在83歳と高齢で癌とも闘病中で痩せこけています。
総理大臣時代は恰幅が良く、色艶もありましたが今は見る影もないですね。
見た目の姿は本当に病人のようですが、発言自体は昔と変わらず頑固一徹。
そんな森喜朗さんの若い頃がラガーマンでイケメンだったとの事で、若い頃の画像をご紹介いたします。
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【画像】森喜朗の若い頃|幼少期から早稲田大学時代
(画像引用:https://www.huffingtonpost.jp/entry/mori_jp_601ba4b6c5b6c0af54d0dec5)
こちらの画像は2021年2月4日に行われた女性蔑視問題での謝罪会見でしたが、謝罪会見と言うよりも逆ギレ会見となりました。
見た目は本当に痩せ細って痛々しいのですが、発言自体はしっかりとしており流石元総理です。
しかし本当に老害です。
#森氏発言#森喜朗氏は引退してください
橋下徹氏「最悪の会見だった」
田村 淳氏「森(氏)をあきらめた」森氏····今日ゴミの日だよ pic.twitter.com/IIP2DGFpas
— はる (@3a6RD4SDn1xsP49) February 5, 2021
それでは森喜朗さんの幼少期からを見ていきましょう。
父・祖父ともに政治家だった
森家は江戸時代加賀藩で、代々村の肝煎(きもいり、庄屋のこと)を務めた家系
森喜朗さんは石川県能美郡根上町(現、能美市)の出身で、お父さんもお爺ちゃんも政治家でした。
石川県能美市根上町は元プロ野球選手の松井秀喜さんの出身地でもあります。
こちらの画像は森喜朗さんの幼少時です。
(画像引用:https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/084.html?tab=sStory1)
左から父・茂喜、祖父・喜平、母・薫さんです。
母の膝に抱かれているのが1歳の森喜朗さんです。
(画像引用:https://www.kantei.go.jp/jp//morisouri/mori_profile/2-1.html)
かわいらしいですね。
祖父:森喜平(根上村長)
父:森茂喜(根上町長)
母:森薫
姉:智子
弟:紀喜(外科医)
森喜朗さんのお父さんは戦争に行って終戦まで家におらず、お母さんの薫さんは昭和19年森喜朗さんが7歳の時に病死し、お爺ちゃん(祖父)が育ててくれたそうです。
ラグビーとの出会い
(画像引用:https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/084.html?tab=sStory2)
こちらの画像は森喜朗さんが小学生の時だと思われます。(前列中央)
左側がお父さんの茂喜さんで、右側が相撲界を引退した双葉山です。双葉山を自宅に呼ぶことが出来るって凄いですよね。
森喜朗さんが小学校4年生の時に早稲田大学のラグビー部の選手がお父さんが誘って合宿に来たそうで、その時に初めてラグビーと出会います。
その年のラグビー早慶戦を見て感動し、ラグビーをやりたい!と思ったそうです。
その当時ラグビーの強豪校石川県立金沢二水高等学校に進むために金沢市立高岡町中学校(現金沢市立高岡中学校)に越境入学しますがラグビー部がないためバスケットボール部に入部。
(画像引用:http://www.kantei.go.jp/jp//morisouri/mori_profile/2-2.html)
こちらの地図は石川県立金沢二水高等学校の場所ですが、実家の根上町から電車で1時間かけて通っていたそうです。
その後石川県立金沢二水高等学校へ進学し、念願のラグビー部へ入部。
キャプテンを務めます。
(画像引用:https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/084.html?tab=sStory2)
高校時代の森喜朗さんですがこの当時は結構イケメンですよね。
森喜朗さんはラグビーでのポジションはスタンドオフだったそうです。
スタンドオフはラグビーでは司令塔の役割をする大事なポジションです。
高校時代最終的には花園へは進めませんでしたが、憧れの早稲田大学へ進学します。
早稲田大学ラグビー部での挫折
(画像引用:https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/084.html?tab=sStory2)
こちらの画像は森喜朗さんが早稲田大学時代の写真です。
結構かっこいいですね!
森喜朗さんの学力では早稲田大学に入ることは難しかったようです。
そこで早稲田大学に入る為にお父さんの後輩元早稲田大学ラグビー部監督の大西鐵之祐(おおにし てつのすけ)さんにお父さんから紹介状を書いてもらい、補習等を受け何とか体育局の推薦を受けることが出来、入学できたそうです。
(いわゆるコネ入学ですね。)
(画像引用:Twitter)
大西鐵之祐(おおにし てつのすけ)さんは本当に素晴らしい指導者だったそうです。
希望に満ちて早稲田大学ラグビー部に入部した森喜朗さんでしたが、周りは名門校出身の優秀な選手達ばかりで全く実力が違いすぎ、肉体的精神的ストレスで入部から4ヶ月で吐血し胃潰瘍と診断されます。
そこで推薦入学で早稲田に入ったから退部だけでなく、退学しなければ申し訳ないと思い、大西監督に退学を伝えました。
すると大西監督はこのように言われます。
「バカもの!」
「ラグビーだけが大学じゃないぞ、森君。
縁あって早稲田に入ったんだ。
早稲田精神を身につけて少しでも世の中のためになろうと君は思わないのか。
将来、ラグビーに恩返しができるような立派な人間になってみろ」。
(森喜朗「私の履歴書」5 (『日本経済新聞』2012年12月5日)より)
引用:https://www-lib.icu.ac.jp/Column/MsDeepWorld/20150909.htm
この言葉が森喜朗さんの心に突き刺さったのだと思います。
早稲田大学時代の挫折で、決して諦めたら駄目だ!
もう2度と挫折しないぞ!
このような事を森喜朗さんは心に刻んだのではないでしょうか?
これが東京オリンピック・パラリンピック理事長としての責任を全うしなければ、辞めるわけにはいかない!
に繋がっているように思います。
頑固な性格は早稲田大学時代の挫折が影響しているのかも知れませんね。
【画像】森喜朗の若い頃|衆議院議員時代
森喜朗さんは早稲田大学卒業後、1960年に産経新聞に入社し、1963年から今松治郎衆議院議員の秘書として働きます。
こちらが今松治郎衆議院議員です。
1961年11月(24歳)には、大学時代のサークルで知り合った牧智恵子さんと結婚されます。
奥さんの智恵子さんや家族についてはこちらの関連記事をお読みください。
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その後1969年(32歳)の時に第32回衆議院議員総選挙に旧石川1区から立候補し、岸信介元首相の応援でトップ当選します。
こちらの画像は衆議院初選挙で応援に訪れた岸元首相と森喜朗さんです。
(画像引用:https://www.ssf.or.jp/ssf_eyes/history/interview/084.html?tab=sStory3)
森喜朗さんスラリとしてイケメンですね。
こちらの画像は産経新聞時代から国会初登庁までです。
(画像引用:http://www.kantei.go.jp/jp//morisouri/mori_profile/2-4.html)
内閣官房副長官40歳(1977年~1978年)
(画像引用:http://www.kantei.go.jp/jp//morisouri/mori_profile/2-5.html)
こちらの画像は森喜朗さんが内閣官房副長官時代の時の写真です。
左側が森喜朗さんですが、SPのようですね。
流石元ラガーマンです。
文部大臣46歳(1983年~1984年)
(画像引用:文科省)
こちらの画像は森喜朗さんが文部大臣時代の写真です。
この時の森喜朗さんは写真のせいなのか厳つい顔していますよね。
自由民主党幹事長56歳(1993年~1995年)
(画像引用:http://www.kantei.go.jp/jp//morisouri/mori_profile/2-5.html)
森喜朗さんはこの時代が一番勢いがあったのではないでしょうか?!
内閣総理大臣63歳(2000年~2001年)
2000年4月小渕恵三首相が脳梗塞で倒れ、その後を引く継ぐ形で総理大臣になりました。
こちらの動画をご覧下さい。
総理大臣になるまでを上手くまとめています。
その後、首相を退陣後、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫へと受け継がれ清和会から四代続けて総理総裁が誕生します。
そして、2012年75歳の時に第46回衆議院議員総選挙に出馬せず、『若い人に後を譲りたい』とし任期終了を以て代議士を引退する意思を表明します。
東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長就任(2014年~
(画像引用:https://dentsu-ho.com/articles/697)
2014年森喜朗さんが77歳の時に、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長の就任しますが、その時の経緯はこのようなモノだったそうです。
五輪招致決定後、森は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長について、企業の協力・協賛やスポンサー集めを円滑に進める目的から「財界人の起用が望ましい」という考えを表明していたが、政界や日本オリンピック委員会関係者からは森の就任を求める声が上がった。
日本オリンピック委員会は張富士夫(森の後を受け日本体育協会会長に就任)ら財界人に会長就任を打診したものの不調に終わったため、改めて森に就任を求めた。
2014年1月、森が東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長に就任した。
また、2015年に日本財団会長の笹川陽平が発起人となり設立された日本財団パラリンピックサポートセンターの最高顧問に就任している。
引用:wiki
このようにある程度力がある人材じゃないと務まらない為、色々な方面に顔が利く森喜朗を会長に選んだようですね。
【動画】森喜朗の現在
森喜朗さんは2021年2月現在本当に痩せこけて、酷い方は死相が漂うなどと言われますが、森喜朗さんは2015年肺がんの手術を受けました。(78歳)
この時はまだ、そうは言っても痩せこけていませんよね。
2015年3月に肺がんの手術を受けた森氏は当時、抗がん剤治療に頼っていた。
副作用のためか、肺に水がたまり、呼吸が苦しくなり、まともに歩けない。
主治医が家族に「年内いっぱいですよ」と告げるほどの状態で同年秋、協会会長を務めたラグビーのW杯イングランド大会を執念の現地観戦。
日本代表の大活躍を見届け「これで俺もサヨナラだな」と思ったときに、オプジーボの存在を知らされた。
14年に発売されたオプジーボは高額で、当初は患者が比較的少ない皮膚がん限定で保険適用されていたが、15年12月に非小細胞肺がんにも適用となった。
森氏は「この薬が自分のためでなく、日本で(広く)使えるようになったら、みんな喜ぶだろう」と考え、投与を受けた。すると――。
「メキメキと(肺にたまった)水がなくなっていく。(普通に)歩けるようになって、医者もびっくりしていた。幸い、副作用も手に斑点ができた程度」
引用:https://www.excite.co.jp/news/article/TokyoSports_1155076/
このように森喜朗さんは肺がんのため手術をし、その後抗がん剤の副作用で一時命が危ない状態にもなりましたが、オプジーボのおかげで、復活しました。
しかし2021年2月4日に行われた謝罪会見をご覧下さい。
明らかに痩せこけています。
呂律も少し回りにくくなっていますね。
しかし、口は達者で謝罪会見が逆ギレ会見になっています。
病状がどのような状態なのか?分かりませんが、あまり良くないのではないでしょうか?
それを考えると生きているうちに東京オリンピックを見届けたい!という気持ちが強いのではないでしょうか?
森喜朗のこれまでの炎上問題発言
森喜朗さんと言えば2021年の女性蔑視発言以前にも数多くの炎上問題発言をしています。
問題発言が多すぎて、全部をお伝えできませんが主なモノをご紹介します。
日本は天皇を中心としている神の国である:2000年
森喜朗さんがが首相だった2000年の発言です。
「神の国発言」とも言われ、国民主権である日本国憲法の否定であり、戦前の「皇国史観」を抱えていると捉えられたことから批判が集まります。
子どもを1人もつくらない女性が:2003年
「子どもをたくさんつくった女性が将来、国が『ご苦労さまでした』といって面倒見るのが本来の福祉。
子どもを一人もつくらない女性が、好き勝手とは言っちゃいかんけども、自由を謳歌し楽しんで年取って、税金で面倒見なさいっていうのは本当はおかしいんですよ」
引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/f79495cccb88babba27d8fc70e11463c9ab71e25?page=1
この世代の人はこういったことを言う人が多いですね。
自民党少子化問題調査会長だった2003年には子どもを持たない女性を否定する発言をし、批判を浴びました。
あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね:2014年
これは先ほどもご紹介した浅田真央さんに対する発言です。
「見事にひっくり返っちゃいましたね。あの子、大事なときには必ず転ぶんですよね」
「転んだことが心の傷に残って、今度は転んじゃいかんという気持ちが強く出たのだと思いますね。ちょっと運が悪かった」
「日本は(団体戦に)出なきゃよかった。負けると分かっていた。浅田さんを出して恥をかかせることはなかった」
引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/f79495cccb88babba27d8fc70e11463c9ab71e25?page=2
元々熱血ラガーマンですからこのような発言が出るのでしょうね。
昔の運動部は軍隊でしたからね。
デザインが生牡蠣がどろっとした感じ:2015年
ザハ・ハディド氏が手がけた新国立競技場の建設計画について「見直した方がいい」とし、そのデザインを「もともとあのスタイルは嫌だった。生牡蠣がドロっとたれたみたいで」と酷評します。
言っている意味は分かりますが、失礼ですよね。
若い人はかっこいいと思うと思います。
国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない:2016年
東京都内で開かれたリオデジャネイロ五輪の壮行会での発言です。
国歌を歌わなかった選手らに対し、来賓あいさつで訴えますが、国歌斉唱ではなく、国歌独唱で森喜朗さんが誤解していたそうです。
「どうしてみんなそろって国歌を歌わないのでしょうか」
「口をモゴモゴしているだけじゃなくて、声を大きく上げ、表彰台に立ったら、国歌を歌ってください」
引用:https://news.yahoo.co.jp/articles/f79495cccb88babba27d8fc70e11463c9ab71e25?page=2
私はマスクをしないで最後まで頑張ろうと思うが、選手は気をつけてほしい:2020年
この言葉は記憶に新しいですよね。
東京オリンピック開催が延期されたら直ぐにマスクをしていましたね。
精神論しか語らない森喜朗さんに批判の声が集中しましたが、この世代は何を言っても無理ですね。
いう事を聞きません。
女性の理事を増やす場合は、発言時間を規制しないとなかなか終わらないので困る:2021年
この発言が世界中の人達から批判が集まっています。
ロンブーの淳さんも聖火ランナーを辞退すると言っています。
本当に森喜朗さん老害になっています。。。
森喜朗さんの家族の方も辛いでしょうね。
森喜朗のプロフィールと経歴
1960年 産経新聞社入社(-1962年)
1963年 今松治郎衆議院議員秘書(-1967年)
1969年 衆議院議員
1977年 内閣官房副長官(-1978年)
1983年 文部大臣(-1984年)
1992年 通商産業大臣(-1993年)
1993年 自由民主党幹事長(-1995年)
1995年 建設大臣(-1996年)
1998年 自由民主党幹事長(-2000年)
2000年 自由民主党総裁
2000年 内閣総理大臣(-2001年)
名前:森喜朗(もり よしろう)
生年月日:1937年7月14日
年齢:85歳(2022年9月現在)
学歴:金沢二水高校・早稲田大学商学部卒
衆議院議員14回当選・在任期間:1969年12月28日 ~2012年11月16日
総理大臣在任期間:2000年4月5日 ~2001年4月26日
まとめ
【画像】森喜朗の若い頃がラガーマンでイケメン!頑固な性格は大学時代の挫折が原因?について記事にしました。
森喜朗さんが亡くなる前に何とか東京オリンピックが開催されると良いですね。
森喜朗さんの発言は問題があるとは思いますが、これまでの生いたちなどを見ると仕方ないような気がします。
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