山田邦子(やまだくにこ)さんは1930年代にお笑い芸人として一世を風靡し、かつてテレビで見かけない日はないほど活躍していました。
今でこそ珍しくありませんが、当時は女ピン芸人が少なかったこと、またネタもおもしろく唯一無二の存在でした。
好きなタレントランキングではずっと1位をキープしていたという過去もあります。
しかし、ある時を境に冠番組がなくなり、テレビでみかけることが無くなりました。
2022年のM1グランプリの審査員を務めることになりますが、全盛期を知らない若い人を中心に「誰?」という反応が多かったようです。
このように山田邦子(やまだくにこ)さんがテレビにあまり出なくなった理由は干されたからだと言われていますが、なぜなのでしょうか。
また、過去には借金をかかえていたこともあるようなのですが、なぜなのか気になるところですよね。
そこで今回は、山田邦子(やまだくにこ)さんの若い頃から現在までの出来事、プロフィールや昔に干された理由、また、全盛期の年収や借金のことまで詳しくご紹介いたします!
山田邦子さんの結婚相手についてはこちらの関連記事をお読み下さい。
【画像】山田邦子の結婚相手は後藤史郎!馴れ初めや子供についても紹介!
【画像】山田邦子の若い頃(昔)から現在までを時系列に紹介
(画像引用:Yahoo!ニュース)
山田邦子さんはかつてテレビで見かけない日はないほど活躍していたのに、今はそうとは言えませんよね。
そうなると山田邦子さんの若い頃の活躍ぶりや現在のことが気になりなるところです。
ここでは、山田邦子さんのデビューから現在までのことについて詳しくご紹介いたします。
素人時代から有名人
(画像引用:withnews.jp)
山田邦子さんは若いころから多くの素人参加バラエティー番組に出演したり、落語家になるため早稲田のお笑いサークルに入部していました。
当時は事務所に所属しておらず、出だしのフリーでしたが、1981年にはTBS系ドラマ『野々村病院物語』で、女優デビューも果たします。
そんな中、山田邦子さんは当時、素人同然の21歳だったものの、いきなりのゴールデン帯番組に抜てきされます。
なんと、その番組はビートたけしさん、明石家さんまさん、片岡鶴太郎さんら、当時のお笑いビッグスターたちがレギュラー出演する『オレたちひょうきん族』だったのです。
出演のきっかけ
山田邦子さんは用がありスタジオに行った際、当時のフジテレビの名物プロデューサー横澤彪(よこざわ たけし)さんに「素人の時、出てた子だよね?フジテレビにちょっと来ない?」と誘われます。
横澤彪さんに言われるがままにフジテレビへ連れられ、ステーキをごちそうになりながら番組にオファーされたのだそうです。
山田邦子さんの努力が実ったのですね。
芸能界入りに父が大反対
(画像引用:Number Web)
山田邦子さんは東京・目白にあるお嬢さま学校で中学から短大までを過ごし、就職もお父さんのツテで大手建設会社の内定を受けていました。
ところが、山田邦子さんは卒業までの間にドラマ出演が決まり、端役だったため会社勤めと両立できるだろうと考えていました。
しかし、この考えは甘く、お父さんに話したところ激怒されてしまいます。
一時は口も聞いてくれず、テレビ局からかかってきた電話もお父さんに切られてしまい、山田邦子さんは途方に暮れます。
そんな時に助けてくれたのが、『野々村病院物語』に内科医役で出演していた関口宏さんだったそうです。
関口宏さんの父である俳優・佐野周二さんは山田邦子さんのお父さんの大学の大先輩で、運動部で活躍している学生を応援していました。
また、水泳部の選手だったお父さんも佐野周二さんのご自宅に呼ばれ、幼いころの関口宏さんと遊んだことがあったのだそうです。
『野々村病院物語』の台本をみた際に関口宏さんの名前を発見し、リハーサルの初日に楽屋にあいさつしに行った時のことです。
山田邦子さん自身は関口宏さんと会ったことはなかったものの、「父が芸能界に入ることを反対しているので、関口さんから何か言っていただけないでしょうか」とお願いします。
なんと、関口宏さんはその話を聞いて「会いたかったんだよ」と言ってOKします。
関口宏さんはとても心の広い方ですね。
おまけに、関口宏さんはしゃぶしゃぶの高級店に父と山田邦子さんを招待し、父を説得したのだそうです。
父は大喜びし、「宏がそこまで言うなら、しょうがないな」と芸能界に入ることを認めてくれたのだそうです。
『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)』でレコードデビュー:1981年(21歳)
山田邦子さんの持ちネタの中でも、バスガイドネタ「右手をご覧ください、一番高いのが中指でございます」が代表的ですよね。
『笑ってる場合ですよ』の『お笑い君こそスターだ!』でバスガイドのネタを披露してチャンピオンを取るなどとても人気でした。
それに合わせて1981年、当時21歳の時に『邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド編)』でレコードを出して歌手デビューを果たしました。
なんと、『ぶりっ子』という言葉は山田邦子さんが発端で日本中に広まったのだそうです。
ぶりっ子は1981年の流行語なのですが、山田邦子さんがバスガイドネタの中で口にするギャグ「ぶり、ぶり、ぶりっ子」が元になっているのだそうです。
『オレたちひょうきん族』で大ヒット:1981年(21歳)~1989年(29歳)
(画像引用:文春オンライン)
『オレたちひょうきん族』は、フジテレビ系列で1981年から1989年まで放送されていたバラエティー番組です。
ビートたけしさんや明石家さんまさん、島田紳助さんなどの豪華な出演者と、多くの予算と小道具を用いた番組で「伝説の番組」とも言われています。
それまでになかった、関東と関西の芸人がレギュラー番組で共演したり、出演者のプライベートをネタにしたりなど、現在のバラエティー番組にも多大な影響を与えた番組です。
その中でもモノマネ芸などで一世を風靡した山田邦子さんは、女性芸人として番組の初期から番組に参加していた貴重な存在でした。
人気コーナーの「ひょうきんベストテン」ではモノマネを披露し、「ひょうきん絵描き歌」などで大ブレイクします。
その後も、レギュラー出演する女性芸人として、さまざまなコーナーやコントに出演して番組を盛り上げました。
そんな『オレたちひょうきん族』の裏話はこちら。
『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』:1989年(29歳)~1992年(32歳)
『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』は山田邦子さんの代表番組であり、「愛は勝つ」や「それが大事」、「さよならだけどさよならじゃない」などのヒット曲を生み出しました。
1989年から放送され、最高視聴率は20.4%を獲得するなど大人気番組でした。
しかし、視聴率が高かったのにも関わらず『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』は突然打ち切りになっています。
この打ち切り理由は表向きは、ゴールデンタイムの音楽番組の復活を狙ったものと説明されていました。
しかし、実際には番組レギュラーを頻繁に変更するスタッフへ山田邦子さんがそれはおかしいと意見し、メイン司会者でありながら番組降板を申し出たことが本当の理由だったのだそうです。
番組共演者に対するスタッフの対応に憤りを持っていたようですが、行動に移すのがすごいですよね。
当時の山田邦子さんはスタッフの間でも扱いにくいキャラクターとして有名だったようです。
NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』で浄円院役:1995年(35歳)
山田邦子さんは大河ドラマ『八代将軍吉宗』で吉宗の生母・浄円役に抜てきされました。
以下は八代将軍吉宗の詳細です。
紀州藩の三男として生まれ、徳川八代将軍に上り詰めた吉宗。享保の改革を断行するなど、江戸幕府中興の祖と呼ばれたその生涯を描いた。
江守徹演じる近松門左衛門が番組中に登場し、庶民から見た将軍家や経済状況などを、パネルや表を使って解説して話題になった。
(引用:NHK人×物×録 )
山田邦子さんはドラマに出るも、あまりにも露出の多かった山田邦子さんが浄円院という役を演じるには違和感があると世間からバッシングを受けます。
これまで好感度ナンバーワンだったことに対するの反動のバッシングもこのころから起き始めました。
写真週刊誌『FOCUS』で恋愛スキャンダル:1995年(35歳)
(画像引用:Number Web)
1995年の12月にFOCUSが『山田邦子が惚れた男 自宅に泊らせる44歳TVプロデューサーとの深い仲』という題でスキャンダルを報じます。
露出過多が原因となって山田邦子さんの担当番組の視聴率が低下するという、人気低迷期に報じられたスキャンダルでした。
お相手は妻子持ち44歳のプロデューサー・後藤史郎さんで、1995年11月には『ゴッズダイナミックワールド』を立ち上げた社長でした。
この記事を受けて、山田邦子さんはリポーターに追われることになりますが、腹を立てた山田邦子さんは井上公造さんに対し暴言を放ってしまいます。
「お前もてないだろう!バカじゃないの?」
このシーンがテレビで放送されたのと、 これまで好感度ナンバーワンだったことの反動として大バッシングが起こります。
山田邦子さんは、好感度圏外になり、レギュラー番組の降板、冠番組も次々打ち切りになってしまいます。
後藤史郎と結婚:2000年(40歳)
(画像引用:スポニチ)
後藤史郎さんと山田邦子さんは2000年1月に結婚しました。
しかし、山田邦子さんと夫・後藤史郎さんの馴れ初めは、詳しくは公表されていません。
ですが、夫・後藤史郎さんは番組プロデューサーとして『山田邦子のしあわせにしてよ』に携わっていました。
この番組が放送されていたのは1995年4月から1997年3月までで、山田邦子さんと夫・後藤史郎さんとの熱愛がスクープされたのが1995年12月のFOCUSです。
この番組が馴れ初めだったのかは公表されていないものの、番組を通じて親密になった可能性はありえますよね。
その報道の中では、夫・後藤史郎さんが山田邦子さんの1人暮らしの自宅に訪れていたと報じられています。
先程ご紹介した通り、山田邦子さんの夫・後藤史郎さんとは再婚で、過去に結婚して妻と子供がいました。
夫・後藤史郎さんの前妻は一般女性だと言われており、誰なのかはわかっていません。
当時、山田邦子さんは恋愛関係ではないと2人の関係を否定したそうですが、この報道をきっかけに後藤史郎さんのご家族はバラバラになります。
後藤史郎さんの前妻は2人の娘とともに引っ越したとの続報もありました。
結果、後藤史郎さんと前妻は離婚し、1995年の熱愛報道から5年後の2000年に山田邦子さんと夫・後藤史郎さんは結婚しています。
乳がん発覚:2007年(47歳)
(画像引用:テレビ東京/BSテレ東)
山田邦子さんは2007年に出演したテレビ番組がきっかけで、当時46歳で乳がんを発見します。
乳がんは早期発見され、山田邦子さんは2度にわたる手術を無事成功しました。
この経験から、がんの啓蒙と患者やその家族への支援活動として、スター混声合唱団を結成してチャリティコンサートを行うようになりました。
太田プロから独立:2019年(59歳)
2019年4月末に山田邦子さんは「杵屋勝之邦」の披露公演に事務所スタッフが1人も来なかったことをブログでつづり、太田プロへの不信感を吐露しました。
それを有吉弘行さんがラジオでネタにしたことで独立騒動が勃発します。
結果、2019年に山田邦子さんはブログで「40年ぶりのフリーです。反社会的勢力には十分気をつけて心機一転 がんばりまーす!」と投稿し、フリーになることが判明します。
事務所側は「本人と話し合った結果、6月いっぱいで円満退社致しました。所属中、皆様には大変お世話になり、ありがとうございました」とコメントを発表しました。
円満退社とは考えられないものの、山田邦子さんは太田プロから独立しました。
また、こちらの動画では山田邦子さんが退社理由を説明しています。
理由としては、芸能人活動40周年で60歳になるから自由にさせてもらおうと思ったからなのだそうです。
先程ご紹介した理由と相まって太田プロから独立したということですね。
M-1グランプリ審査員に:2022年(62歳)
(画像引用:週刊女性PRIME)
山田邦子さんは2022年に初の参加となるM-1グランプリの審査員としてテレビに出演しました。
しかし、山田邦子さんは若い世代からはあまり馴染みのない人になるため、審査員に決まった時点でとまどう声もありました。
そのせいもあってか、出場者と同じくらい注目の的となり、決勝オンエア中、ツイッターには山田邦子さんの審査についての賛否のコメントがあふれることになります。
番組終了後、本人のツイッターアカウントに宛てて、賞賛やねぎらうメッセージもある一方、批判や「来年は審査員を引き受けないでください」といったツイートが寄せられました。
「点数辛口やったなあ」「ブレっブレで最悪でしたな。過去のM1見てれば平均点くらいわかるでしょ」「二度と引き受けないで下さい」など点数に関する批判が多く見られました。
採点についてはこのように「ブレすぎ」派と「邦子さんなりの審査基準がある」派に分かれて賛否がありました。
しかし、来年審査員のオファーがあったら引き受けるかと山田邦子さんは聞かれた時に「もちろん引き受けますよ!」と即答しています。
山田邦子さんは、先程のエピソードからわかる通り、若い世代にはあまり馴染みが深い人ではないためこのようにYoutubeを挙げています。
こちらの動画では、山田邦子さん自身のことやM-1グランプリなどについて語られています。
【画像】山田邦子の若い頃(昔)に干された理由は?
1.不倫して略奪婚したから
先程ご紹介した通り、山田邦子さんは、1995年12月に妻子ある男性・後藤史郎さんとの不倫が発覚しました。
これが一番干された原因と言われています。
そして山田邦子さんは2000年に不倫相手だった後藤史郎さんと略奪婚をしています。
2.井上公造への暴言
こちらも先程ご紹介した通り、山田邦子さんは1995年の不倫騒動の際、芸能リポーターの井上公造さんへの暴言がありました。
好感度は下がり、先程の略奪婚と相まって山田邦子さんはテレビから姿を消すこととなります。
8年連続好きなタレントランキングも1位だったのにもかかわらず、その後は1996年には6位、1997年には14位となってしまいます。
3.ADなどへの悪い態度
山田邦子さんは、全盛期にADなどへの態度が問題視されていたといわれています。
噂ではありますが、全盛期にはレギュラーが14本という売れっ子だったため、周囲からは嫉妬されとても疎まれる存在だったのだそうです。
『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』でも、山田邦子さんはスタッフの間では扱いにく人物でした。
また、山田邦子さんは人気のあまり天狗になっていたという噂もあります。
4.テレビに出ても視聴率がとれない
『やまだかつてないテレビ』打ち切り後には、1995年に昼の帯番組である『山田邦子のしあわせにしてよ』がはじまりました。
しかし、裏番組の「笑っていいとも!」や「午後は○○おもいッきりテレビ」を視聴率で追い越すことができずに、低視聴率となってしまいました。
結果、山田邦子さんは1997年には『山田邦子のしあわせにしてよ』『邦子がタッチ』という2つの冠番組が同時期に打ち切りになり、冠番組がなくなります。
今まで高視聴率を叩き出したり好感度も高かったりした山田邦子さんですが、バッシングされるようになってしまいます。
【画像】山田邦子の若い頃(昔)|全盛期の年収がヤバい
かつてテレビで見かけない日はなかったほど人気があった山田邦子さんですが、全盛期の収入が気になるところですよね。
また、山田邦子さんは借金を抱えていた過去もあるのですが、なぜなのでしょうか。
ここでは、収入や借金のこと、プロフィールをご紹介いたします。
月収1億円?!
山田邦子さんは『おれたちひょうきん族』時代に事務所から手渡しで紙袋に入った月収1億円を受け取ったことがあるのだそうです。
当時の月給は手渡しで行われていたのでおかしなことではありませんが、紙袋に1億円が入っていると想像するとびっくりしますよね。
山田邦子さんは週に14本を持つ超売れっ子で、ゴールデンタイムで冠番組を持ち、さらには全局制覇もなしとげています。
その結果収入が1億円にまでのぼったということです。
山田邦子さんは、収録後に共演者やスタッフを引き連れて高級店でかに料理を食べに行き、総額200万円を支払ったこともあるそうです。
また、たまの4連休があるとファーストクラスでニューヨークを往復し、現地でヘリをチャーターしてマンハッタンの夜景を楽しんだこともあるのだそうです。
やはりそれだけ稼いでるとお金使いの規模が違いますよね。
借金が22億円だった?!
(画像引用:ORICON NEWS)
山田邦子さんは収入には恵まれていたはずですが、意外にも「借金」に苦しめられていました。
理由は、29歳ぐらいのときに家族が節税対策で子会社をつくり、その会社で不動産などを始めたからだそうです。
そうなると、山田邦子さんがいくら稼いでもすぐに投資に回されてしまい、借金ができてしまうという生活でした。
返済すると、さらに大きな借金をするためいつも「お金がない」と言われ続けている状態だったそうです。
山田邦子さんは周囲の人たちが幸せになるならと歯を食いしばって仕事を続けていましたが、あるとき精神は限界を迎えます。
山田邦子さんは借金をぜんぶ返して楽になりたいと懇願して会社を解散し、最終的に2年かけて22億円の借金を返済したのだそうです。
【画像】山田邦子のプロフィール
(画像引用:Yahoo!ニュース)
こちらが山田邦子さんのプロフィールになります。
本名:後藤 邦子(ごとう くにこ)
出身地:東京都板橋区
生年月日:1960年6月13日
年齢:62歳(2023年3月現在)
身長:168cm
体重:不明
血液型:B型
ここでは、山田邦子さんの自殺を考えたときのことについてご紹介いたします。
山田邦子さんは大勢が苦手だったため、若い時に芸能人運動会に出たくないと何回も事務所に行きたくないことを相談します。
ですが、事務所から受け入れられず山田邦子さんは気持ちが暗くなって思い詰めてしまいます。
山田邦子さんはそのとき忙しい時期にあったので、嫌な仕事が舞い込んできたため本気で自殺を考えたようです。
そのときなにを思ったのか警察に電話で相談したところ、そういう専門の部署に話を聞いて貰い、喋っているうちに元気になったそうです。
山田邦子さんが自殺を実行しなくて本当によかったですよね。
まとめ
今回は、山田邦子(やまだくにこ)さんの若い頃から現在までの出来事、プロフィールや昔に干された理由、また、全盛期の年収や借金のことなどをご紹介いたしました。
山田邦子さんの全盛期時代はとてもすごく、テレビには絶対的に必要な存在であったことが分かりました。
山田邦子さんにはこれからもテレビやYouTubeなどのメディアでがんばってほしいですね。
コメント